日本の造船の近代化を支えた吉田松陰門下生
渡辺 蒿蔵
わたなべ こうぞう
明治初期の洋式造船技術者
1843(天保14)年〜1939(昭和14)年
1843(天保14)年、萩の川島(現 萩市)に生まれました。1857(安政4)年、松下村塾に入り、松陰から「人は実行が第一」と教わります。松陰の死後は、同じ松陰門下生の久坂玄瑞らと尊王攘夷運動に奔走していきます。
やがて関門海峡で行われた攘夷戦争で外国の脅威を実感します。「禁門の変」後は英語を独習し、萩藩の海軍学校の英語教師となります。1867(慶応3)年、藩の許しを得てアメリカ・イギリスへ留学して造船を学び、1873(明治6)年に帰国。工部省に入ると長崎製作所の管轄者に抜てきされて当時東洋一のドックを完成させ、長崎造船局が設けられると、その初代局長となるなど、日本の造船の近代化に尽力します。
退職後、萩に帰郷。蒿蔵が造船の道へ進んだのは「松陰先生が今後の日本は大いに造船の技術を発展させ、海外進出の基を築かねばならないと話しておられた」からだと語るなど、松陰についての貴重な証言を残し、1939(昭和14)年、満96歳で亡くなりました。
「山口県の先人学習コーナー」施設内の参考資料
- 最後の門下生 渡辺蒿蔵が語る松下村塾(海原徹 著)萩ものがたり
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