日露戦争(にちろせんそう)などで活躍(かつやく)郷里(きょうり)に図書館を建設(けんせつ)

児玉 源太郎

こだま げんたろう

周南市美術博物館 蔵

明治(めいじ)時代の陸軍(りくぐん)軍人・政治家(せいじか)

1852(嘉永(かえい)5)年〜1906(明治39)年

 1852(嘉永5)年、徳山藩士(とくやまはんし)・児玉家の長男として都濃郡(つのぐん)徳山村(現 周南(しゅうなん)市)で生まれ、徳山藩の藩校「興譲館(こうじょうかん)」で学びました。
 明治維新(いしん)後、フランス式軍事教育を受けた後、大阪兵学寮(おおさかへいがくりょう)で学びます。1887(明治20)年、陸軍大学校の校長となり、1891(明治24)年には陸軍参謀長(さんぼうちょう)としてヨーロッパへ派遣(はけん)され、軍事教育を視察(しさつ)しました。
 1898(明治31)年、台湾総督(たいわんそうとく)(にん)じられ、2年後に第4次伊藤内閣(いとうないかく)が発足すると陸軍大臣(だいじん)も兼ねて伊藤博文(ひろぶみ)(ささ)えました。1903(明治36)年、第1次(かつら)内閣で内務(ないむ)大臣・台湾総督・文部大臣を兼任(けんにん)。1904(明治37)年、日露(にちろ)戦争では満州軍総参謀長(まんしゅうぐんそうさんぼうちょう)として陸軍の作戦全般(ぜんぱん)指揮(しき)し、旅順(りょじゅん)二百三高地(にひゃくさんこうち)陥落(かんらく)させますが、帰国7ケ月後の1906(明治39)年7月、急逝(きゅうせい)しました。 また、源太郎は1902(明治35)年、皇室(こうしつ)からの下賜金(かしきん)私費(しひ)を合わせて、生家の地に私設(しせつ)図書館を()て、地域(ちいき)の人々に公開し、「児玉文庫」として親しまれました。

児玉源太郎クイズ

問題1

日露戦争で活躍した児玉源太郎が※私費で建てた図書館は何と呼ばれましたか? ※私費:自分のお金
A
児玉文庫
B
児玉文書館
完了するには、1質問があります。
戻る
網掛け部分は完了した項目です。
1
戻る

参考資料

  • 児玉源太郎 そこから旅順港は見えるか ミネルヴァ日本評伝選(小林 道彦 著)ミネルヴァ書房
  • 天辺の椅子 日露戦争と児玉源太郎 ちくま文庫 ふ39-1(古川 薫 著)筑摩書房
  • 天辺の椅子 -日露戦争と児玉源太郎-(古川 薫 著)筑摩書房
  • ミネルヴァ日本評伝選 児玉源太郎 -そこから旅順港は見えるか-(小林 道彦 著)ミネルヴァ書房

関連施設

「山口県の先人たち」に掲載されている個々の文章、写真などは著作権の対象となっています。ご利用にあたっては、著作権法の範囲内でご使用ください。