平和の(とうと)さを戦場(せんじょう)から(つた)えたジャーナリスト

橋田 信介

はしだ しんすけ

個人蔵

昭和・平成時代の戦場ジャーナリスト

1942(昭和17)年〜2004(平成16)年

 1942(昭和17)年、宇部(うべ)市で生まれ、宇部市立鵜ノ島(うのしま)小学校・(おき)(やま)小学校・桃山(ももやま)中学校で学びます。市立高等学校(現 山口県立宇部中央高等学校)で学んだ後、宇部郵便局(ゆうびんきょく)に入局。東京(とうきょう)転勤(てんきん)し、夜は法政(ほうせい)大学第2法学部で学びます。

 1970(昭和45)年、日本電波(でんぱ)ニュースに入社。当時の北ベトナムのハノイ支局(しきょく)赴任(ふにん)し、ベトナム戦争などを取材(しゅざい)します。1988(昭和63)年、フリーランスに。湾岸(わんがん)戦争で大量(たいりょう)のイラク空軍機(くうぐんき)がイラン国内に退避(たいひ)している現場(げんば)撮影(さつえい)するなど、世界的なスクープ映像(えいぞう)を次々と撮影。戦争に翻弄(ほんろう)される弱い立場の人々の現状(げんじょう)を世界に伝えるため危険(きけん)覚悟(かくご)で活動を(つづ)けます。

 2004(平成16)年61(さい)のとき、戦火で目を負傷(ふしょう)したイラクのモハマド少年を日本に(まね)くため、(おい)小川功太郎(おがわこうたろう)とイラクへ入りますが、武装勢力(ぶそうせいりょく)から襲撃(しゅうげき)され、(とも)死亡(しぼう)事件(じけん)は多くの人々に衝撃(しょうげき)を与えました。同年、長年の報道(ほうどう)活動に対して第41回ギャラクシー(しょう)報道活動部門特別(とくべつ)賞が贈られ、また、家族や周囲(しゅうい)の人々がモハマド少年の来日を実現(じつげん)させ、目の手術(しゅじゅつ)成功(せいこう)。橋田メモリアル・モマハドくん基金(ききん)設立(せつりつ)され、イラクに孤児院(こじいん)と母子病院(びょういん)が開設されました。

橋田信介クイズ

問題1

橋田(はしだ)メモリアル・モハマドくん基金(ききん)設立(せつりつ)され、ベトナムに孤児院(こじいん)母子病院(ぼしびょういん)開設(かいせつ)されました。
A
B
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