日本のオペラの先駆者(せんくしゃ)我等(われら)のテナー」

藤原 義江

ふじわら よしえ

藤原義江記念館 蔵  早田雄二 撮影

大正・昭和時代のテノール歌手

1898(明治(めいじ)31)年〜1976(昭和51)年

1898(明治31)年、赤間関(あかまがせき)市(現 下関市)でスコットランド生まれのイギリス人の父と日本人の母の間に生まれました。幼年期(ようねんき)は母と九州各地(きゅうしゅうかくち)などを転々(てんてん)とし、大阪(おおさか)より一人で下関に(もど)り、11(さい)のとき、実父の援助(えんじょ)上京(じょうきょう)して学びます。1916(大正5)年、大阪で(はたら)いていたときに芝居(しばい)()せられ、新国劇(しんこくげき)参加(さんか)翌年(よくとし)、東京へ戻り、浅草(あさくさ)オペラへ転向(てんこう)します。

1920(大正9)年、イタリアへ(わた)り、声楽(せいがく)を学びます。翌年、ロンドンでのリサイタルが評判(ひょうばん)となり、欧米(おうべい)各地で歌声を披露(ひろう)。アメリカの新聞は「和製(わせい)バレンチノ」と紹介(しょうかい)し、朝日新聞は「我等のテナー」として連載(れんさい)。3年ぶりに帰国すると熱狂的(ねっきょうてき)(むか)えられます。1926(大正15)年、アメリカビクター社と専属契約(せんぞくけいやく)締結(ていけつ)。1930(昭和5)年、日本での本格的(ほんかくてき)なオペラに初出演(はつしゅつえん)し、以後(いご)、欧州各地でオペラなどに出演。1934(昭和9)年「藤原歌劇団(ふじわらかげきだん)」を創立(そうりつ)し、「ラ・ボエーム」を日本初上演。その後も多くのオペラを上演し、日本にオペラの文化を広めました。

1969(昭和44)年、勲三等瑞宝章(くんさんとうずいほうしょう)を受章。1976(昭和51)年に(まん)77歳で死去(しきょ)。7年後、下関市に「藤原義江記念館」がオープンしました。

藤原義江クイズ

問題1

1920年藤原義江が、イタリアへ(わた)り学んだのは何でしょう。
A
声楽
B
器楽
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