困窮した士族をナツミカン栽培で救済

小幡 高政

おばた たかまさ

萩博物館 提供

幕末の萩藩士、明治時代の実業家

1817(文化14)年〜1906(明治39)年

 1817(文化14)年、萩藩士祖式家の子として吉敷郡恒富村(現 山口市)に生まれ、小幡家の養子となりました。萩藩の江戸の藩邸の留守居役や、幕末には、朝廷と幕府との間をつなぐ役割も務めて萩藩を支えました。

 明治維新後は小倉県権令などを務めますが、母の看病のために辞め、萩に帰ります。高政は当時、生活に困窮するようになっていた士族をみかねて、萩の武家屋敷の土地を活用し、ナツミカンを栽培することを思いつきます。そして士族による授産結社「耐久社」を結成して1万本の苗木を育て、士族などに配りました。

 栽培は次第に広がり、その果実は広島や大阪などに出荷されて人気を集め、明治30年代末ごろには萩の一大産業になりました。高政は第百十国立銀行(現 山口銀行)の創立にも関わり、2代目頭取を務め、満88歳で亡くなりました。

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