幕末の萩藩を改革したリーダー
周布 政之助
すふ まさのすけ
幕末の萩藩士
1823(文政6)年〜1864(元治元)年
1823(文政6)年に萩藩士の子として萩で生まれ、藩校「明倫館」に学びました。村田清風の後を継ぎ、萩藩の財政立て直しなどの改革に取り組み、保守派と対立した後、実権を握りました。
吉田松陰や、その子弟である久坂玄瑞、高杉晋作らを認め、彼らが幕府からの弾圧に巻き込まれないようにするなど、心をくだきました。また、洋学を重視し、大村益次郎を登用して洋式の軍備への改革を進めるなど、優れた人材を活用しました。伊藤博文ら萩藩の5人の若者(いわゆる「長州ファイブ」)をイギリスへ密航留学させることにも力を尽くしました。
しかし、幕末の激動期にあって、尊王攘夷派のリーダーだった萩藩が1863(文久3)年には朝廷の態度の急変によって京都から追放され(8月18日の政変)、1864(元治元)年7月には禁門の変、8月には幕府による第1次長州征討の命令が下されるなど、萩藩をめぐる状況は大きく揺れ動きます。そうした中で藩内には争いが絶えず、責任を感じ、1864(元治元)年9月、身を寄せていた吉敷郡矢原村(現 山口市矢原)の大庄屋・吉富家で自刃しました。満41歳でした。
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