山口市制施行の推進者
河北 勘七
かわきた かんしち
政治家、実業家
1864(元治元)年〜1936(昭和11)年
1864(元治元)年、萩藩士・河北一の長男として山口町(現 山口市)で生まれました。明治の初め、上京して法律を学び、1887(明治20)年、ベルギーのブリュッセル大学に留学して政治学を専攻します。1893(明治26)年に帰国。若くして衆議院議員に当選します。
1899(明治32)年、岡十郎や山田桃作と「日本遠洋漁業株式会社」を創立し、ノルウェー式捕鯨業を始めます。さまざまな苦難を経て成功しますが、「東洋捕鯨株式会社」の成立を機に経営から退きます。
1901(明治34)年、「小野田セメント会社」が苦境に陥ると整理委員長として負債を整理し、政治家・井上馨の推薦で社長に就き、業績が回復すると辞任します。1922(大正11)年には、山口町長に就任。吉敷村との合併による山口市の発足を図り、1928(昭和3)年に町長を退きますが、翌年、山口市の誕生が実現。1936(昭和11)年、満71歳で亡くなりました。
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