松下村塾の創始者
玉木 文之進
たまき ぶんのしん
幕末の萩藩士、教育者
1810(文化7)年〜1876(明治9)年
1810(文化7)年、萩藩士の杉家の子として萩で生まれ、玉木家の養子となりました。藩の山鹿流兵学を教える吉田家を継いだ、おいの吉田松陰を幼いころから厳しく指導するとともに、松陰の代理教授として藩校「明倫館」で教えました。
その後、藩に仕えていましたが、部下の不始末によって辞め、1842(天保13)年、自宅で「松下村塾」を始め、乃木希典らを教えました。やがて藩の仕事に復帰し、小郡や吉田の代官、郡奉行などを務めます。その間、松下村塾の経営は久保五郎左衛門、さらに松陰に受け継がれました。
1869(明治2)年に隠退し、松下村塾を再び興します。しかし、明治維新後、生活が苦しくなった士族らが起こした萩の乱に一族や塾生が参加したことに責任を感じて自刃し、満66歳で亡くなりました。
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