悲運の奇兵隊総督
赤禰 武人
あかね たけと
幕末の志士
1838(天保9)年〜1866(慶応2)年
1838(天保9)年、柱島(現 岩国市)の医師・松崎家に生まれました。遠崎村(現 柳井市)の僧・月性や萩藩重臣浦氏の郷校・克己堂に学び、1856(安政3)年には吉田松陰の門下生に。翌年、浦氏家臣・赤禰家の養子となります。高杉晋作が奇兵隊を組織するとすぐに入隊し、やがてその総督になり、身分も萩藩の士分に取り立てられます。
1864(元治元)年、萩藩が禁門の変で敗れると藩内は2派に分裂。武人は奇兵隊など諸隊の存続などを求めて保守派政権となった藩政府に交渉しますが、その最中に晋作が藩政府に対して挙兵。武人は一旦避難し、内戦回避へと奔走します。しかし、諸隊は晋作らに呼応して内戦へ突入し、1865(慶応元)年、藩政府軍に勝利。
その結果、萩藩は対外的には幕府に恭順し、藩内には武備を充実させるという藩論に統一。保守派の旧藩政府員を処刑します。幕府軍の長州出兵が迫る中、武人は戦争回避のために動きますが捕らえられ、1866(慶応2)年処刑されます。満28歳でした。
死後、その復権を求める人は多く、柱島・阿月(現 柳井市)の墓所に加え、1995(平成7)年には下関の東行庵墓地にも墓を建立。山口市には碑が建立されています。
「山口県の先人学習コーナー」施設内の参考資料
- 史料赤禰武人(一坂太郎 編)東行庵
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