多くの志士(しし)を育てた松下村塾(しょうかそんじゅく)主宰者(しゅさいしゃ)

吉田 松陰

よしだ しょういん

山口県文書館 蔵

幕末(ばくまつ)思想家(しそうか)・教育者

1830(天保(てんぽう)元)年—1859(安政(あんせい)6)年

■ 11 (さい)殿様(とのさま)の前で講義(こうぎ)

1830(天保元) 年、萩藩士(はぎはんし)杉百合之助(すぎゆりのすけ)・滝の次男として萩で生まれました。萩藩の山鹿流兵学師範(やまがりゅうへいがくしはん)だったおじの吉田家を幼くして()ぎ、おじの玉木文之進(たまきぶんのしん)らから(きび)しい教育を受けて育ちました。
10 歳のとき、藩校「明倫館(めいりんかん)」の教壇(きょうだん)に立ち、翌年(よくねん)には、藩主毛利敬親(もうりたかちか)の前で講義を立派(りっぱ)()()げます。
松陰はさまざまな人の教えを受けて世界への目を開かされ、当時の日本が置かれた厳しい現状(げんじょう)を学びます。全国各地を旅して見聞(けんぶん)を広め、その土地の状況を知り、江戸(えど)では思想家で兵学者の佐久間象山(さくましょうざん)らに学びました。

個性(こせい)と実行を重んじた教育

1854(安政元) 年、外国を自分の目で見たいと考え、浦賀(うらが)停泊中(ていはくちゅう)の黒船で金子重之助(かねこしげのすけ)と外国への密航(みっこう)(はか)りますが失敗(しっぱい)。自首し、江戸から萩の野山獄(のやまごく)へ送られます。
やがて実家で幽囚(ゆうしゅう)中、若者らが教えを(もと)めて来るようになり、幽囚室を出ると、玉木文之進が創設(そうせつ)した松下村塾を受け()ぎます。
塾生には「読書だけではだめだ。実行が大事だ」と()き、個性(こせい)を重んじ、一方的に教えるのではなく議論(ぎろん)しながら(とも)に学び、久坂玄瑞(くさかげんずい)高杉晋作(たかすぎしんさく)ら多くの志士を育てました。また、塾生らにも旅を(すす)め、彼らを通じて最新の情報収集(じょうほうしゅうしゅう)にも(つと)めました。

■ 受け継がれた(こころざし)

その後、松陰は幕府(ばくふ)朝廷(ちょうてい)の許しを得ずに日米修好通商条約(しゅうこうつうしょうじょうやく)調印(ちょういん)したことを厳しく批判(ひはん)するようになります。幕府による安政の大獄(たいごく)が始まる中、藩は過激(かげき)な言動を(おそ)れ、松陰を(ふたた)び野山獄に収容(しゅうよう)します。
1859(安政6) 年5月、幕府の命令(めいれい)を受け、松陰は萩から江戸へ送られます。そして10月に処刑(しょけい)され、(まん)29 (さい)()くなりました。
しかし、(こころざし)ある大衆(たいしゅう)の人々が立ち上がって日本を変えるべきだという松陰の「草莽崛起(そうもうくっき)」の志は、塾生らに受け継がれ、討幕(とうばく)へ、明治維新(めいじいしん)へと、時代を大きく動かしていきました。

吉田松陰クイズ

問題1

吉田松陰が玉木文之進から受け継ぎ、多くの志士を育てた塾を何といいますか?
A
松下村塾
B
明倫館
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参考資料

    ★児童向け書籍★



  • コミック版 日本の歴史13 幕末・維新人物伝 吉田松陰と高杉晋作(監修 加来耕三)ポプラ社

  • 松下村塾の指導者吉田松陰(福川祐司)講談社

  • 新 ものがたり日本歴史の事件簿 若者たちに維新を託して 吉田松陰、安政の大獄に散る(小西聖一 著)理論社

  • この人を見よ!歴史をつくった人びと伝21 吉田松陰(プロジェクト新・偉人伝)ポプラ社

  • 松陰先生のことば (一坂 太郎 編)萩ものがたり

  • 解説脚注 吉田松陰撰集 -人間松陰の生と死(松風会 編纂)松風会

  • 吉田松陰 -30年の生涯-(鈴木喜代春 著)あすなろ書房


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