初代司法大臣(しほうだいじん)、日本大学の学祖(がくそ)

山田 顕義

やまだ あきよし

萩博物館 蔵

幕末(ばくまつ)志士(しし)明治(めいじ)時代の政治家(せいじか)

1844(弘化(こうか)元)年〜1892(明治25)年

 1844(弘化元)年、萩藩士(はぎはんし)の家の長男として萩で生まれました。村田清風(むらたせいふう)大伯父(おおおじ)に当たります。藩校「明倫館(めいりんかん)」や吉田松陰(よしだしょういん)の「松下村塾(しょうかそんじゅく)」に学び、尊王攘夷(そんのうじょうい)運動に奔走(ほんそう)大村益次郎(おおむらますじろう)から西洋兵学(へいがく)を学び、1868(慶応(けいおう)4・明治元)年から始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)では新政府軍(しんせいふぐん)参謀(さんぼう)として(たたか)いました。
 1869(明治2)年に兵部大丞(ひょうぶだいじょう)となり、翌年(よくとし)大阪に兵学校を(もう)けます。1871(明治4)年、岩倉使節団(いわくらしせつだん)参加(さんか)して欧米(おうべい)視察(しさつ)し、法律(ほうりつ)制定(せいてい)や教育の重要性(じゅうようせい)認識(にんしき)するようになりました。その後、木戸孝允(きどたかよし)の有力幹部(かんぶ)となり軍人から政治家へ。第1次伊藤内閣(いとうないかく)で初代司法大臣に就任(しゅうにん)します。やがて伊藤博文(ひろぶみ)井上馨(いのうえかおる)山県有朋(やまがたありとも)に次ぐ実力者となり、黒田内閣・第1次山県内閣でも司法大臣を(つと)め、民法(みんぽう)・商法など日本の近代法の整備(せいび)に力を()くしました。日本法律学校(現 日本大学)の創設(そうせつ)などに(かか)わり、教育の発展(はってん)にも貢献(こうけん)し、(まん)48(さい)()くなりました。

山田顕義クイズ

問題1

日本の近代法の整備(せいび)に力を()くした山田顕義が創設(そうせつ)した大学は、現在の何という大学ですか。
A
日本大学
B
東京大学
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参考資料

  • 日本巨人伝山田顕義(佐藤三武朗 著)講談社

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