漂泊(ひょうはく)俳人(はいじん)

種田 山頭火

たねだ さんとうか

明治(めいじ)・大正・昭和時代の俳人

1882(明治15)年〜1940(昭和15)年

 1882(明治15)年、西佐波令(にしさばりょう)村((げん) 防府(ほうふ)市)の大地主の家の長男として生まれました。本名は正一(しょういち)。9(さい)のとき、母が自死。旧制(きゅうせい)中学校卒業(そつぎょう)後、早稲田(わせだ)大学へ進学しますが、中退(ちゅうたい)帰郷(ききょう)し、父が大道(だいどう)村(現 防府市)で始めた酒造業(しゅぞうぎょう)手伝(てつだ)うようになります。結婚(けっこん)し、子どもが誕生(たんじょう)。そのころ荻原(おぎわら)井泉水(せいせんすい)らが定型(ていけい)にとらわれない自由律(じゆうりつ)俳句を提唱(ていしょう)します。正一は井泉水に師事(しじ)し、井泉水が主宰(しゅさい)する俳句雑誌(ざっし)層雲(そううん)』に「山頭火」の俳号で投稿(とうこう)し、注目されるようになります。

 しかし1916(大正5)年、家業(かぎょう)破綻(はたん)妻子(さいし)熊本(くまもと)へ。その後、離婚(りこん)し、出家(しゅっけ)。1926(大正15)年、43歳のとき、一人で行乞放浪(ぎょうこつほうろう)の旅へ出ます。50歳を(むか)えるころからふるさとに近い小郡(おごおり)の「其中庵(ごちゅうあん)」に落ち着き、その後、山口市湯田温泉(ゆだおんせん)の「風来居(ふうらいきょ)」へ転居。一度はふるさとや家族を()てたものの(かく)れるようにして幾度(いくど)もふるさとや家族のもとへ。また、(まず)しい()らしは全国各地(かくち)句友(くゆう)たちに(ささ)えられました。

 1939(昭和14)年、湯田を去り、四国へ。遍路(へんろ)()て、翌年(よくねん)愛媛(えひめ)県松山市の「一草庵(いっそうあん)」に落ち着き、10月、(まん)57歳で()くなりました。

種田山頭火クイズ

問題1

山頭火(さんとうか)荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)師事(しじ)し、定型(ていけい)にとらわれない俳句(はいく)を作りました。その俳句を何と言いますか。
A
自由律俳句(じゆうりつはいく)
B
自由俳句(じゆうはいく)
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