明治政府高官(めいじせいふこうかん)辞職(じしょく)し、不平士族(しぞく)のリーダーに

前原 一誠

まえばら いっせい

山口県立山口博物館 蔵

幕末(ばくまつ)志士(しし)明治(めいじ)時代の政治家(せいじか)

1834(天保(てんぽう)5)年〜1876(明治9)年

 萩藩士(はぎはんし)佐世(させ)家の長男として萩に生まれ、厚狭郡(あさぐん)船木目出((げん) 山陽小野田市)で育ちました。1857(安政(あんせい)4)年、松下村塾(しょうかそんじゅく)に入塾。吉田(よしだ)松陰(しょういん)から「(ゆう)あり、()あり、誠実(せいじつ)人に()ぐ」と(ひょう)されるようになります。その後、尊王攘夷派(そんのうじょういは)の志士として活動。1864(元治(げんじ)(がん))年の「禁門(きんもん)(へん)」「四国艦隊下関砲撃事件(かんたいしものせきほうげきじけん)」後、藩内で意見が2つに分かれて(はげ)しく対立すると、晋作(しんさく)らと(とも)(たたか)って諸隊(しょたい)を勝利に(みちび)き、藩論(はんろん)統一(とういつ)に力を()くします。1865(慶応(けいおう)元)年、佐世から前原へ改姓(かいせい)。第2次長州征討(ちゅうしゅうせいとう)四境(しきょう)戦争)では小倉(こくら)藩の降伏(こうふく)に力を尽くし、1868(明治元)年の戊辰戦争(ぼしんせんそう)では参謀(さんぼう)として長岡城攻略(ながおかじょうこうりゃく)に当たります。
 1869(明治2)年に越後府判事(えちごふはんじ)参議(さんぎ)兵部大輔(ひょうぶたいふ)となりますが、新政府(せいふ)と意見が合わなくなり、翌年(よくねん)辞職(じしょく)し、病気を理由に帰郷(ききょう)します。1876(明治9)年、山口県の不平士族を統率(とうそつ)して挙兵(きょへい)(萩の(らん))。しかし、出雲宇龍港(いずもうりゅうこう)(現 島根県出雲市)で(とら)えられ、萩で処刑(しょけい)されました。(まん)42(さい)でした。

前原一誠クイズ

問題1

明治時代に前原一誠が山口県の不平士族を統率して起こした乱を何といいますか。
A
萩の乱
B
秋月の乱
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