高杉晋作(たかすぎしんさく)らを(ささ)えた小郡(おごおり)大庄屋(おおじょうや)

林 勇蔵

はやし ゆうぞう

小郡仁保津にある林勇蔵翁座像

幕末(ばくまつ)の農民

1813(文化10)年〜1899(明治(めいじ)32)年

 1813(文化10)年、吉敷郡矢原(よしきぐんやばら)村(現 山口市)に生まれ、小郡宰判(おごおりさいばん)の林家の養子(ようし)となりました。上中郷(かみなかごう)(現 山口市小郡上郷)の庄屋となりますが、当時上中郷は椹野川(ふしのがわ)洪水(こうずい)によって米を収穫(しゅうかく)できない年が度々ありました。勇蔵は1851(嘉永(かえい)4)年、仁保津(にほづ)(おか)の上に水田を作ることを考え、鉱山(こうざん)()技術(ぎじゅつ)を取り入れて池や水路用トンネルなど(椎の木峠(しいのきだお)トンネル)を作り、その後、約10ヘクタールの水田を完成(かんせい)させました。
 1855(安政(あんせい)2)年、勇蔵は小郡宰判の大庄屋となりました。1864(元治(げんじ)元)年、幕府(ばくふ)から萩藩征討(はぎはんせいとう)命令(めいれい)が出され、藩の主導権(しゅどうけん)を幕府に(したが)う人たちが(にぎ)り、それに反発して高杉晋作らが挙兵(きょへい)します。勇蔵は翌年(よくとし)、晋作らの改革派(かいかくは)財政的(ざいせいてき)援助(えんじょ)し、また、庄屋同盟(しょうやどうめい)結成(けっせい)して(ささ)え、勤王大庄屋と()ばれるようになりました。明治維新(いしん)後は山口県租税課(そぜいか)に勤め、農民のための地租改正(ちそかいせい)の仕組みを作りました。また、洪水を(ふせ)ぐため椹野川を改修(かいしゅう)し、小郡の人々のために力を()くし、(まん)86(さい)()くなりました。

林 勇蔵クイズ

問題1

新後、林勇蔵が山口県租税課に勤め、農民のために作った仕組みは何ですか。
A
地租改正
B
庄屋同盟
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