人生の「えん()」を作り続けた作詞家(さくしか)

星野 哲郎

ほしの てつろう

荒牧万佐行 撮影、紙の舟 蔵

昭和・平成時代の作詞家

1925(大正14)年〜2010(平成22)年

 1925(大正14)年、大島(ぐん)森野村((げん) 周防(すおう)大島町)で生まれました。(おさな)くして両親が離婚(りこん)し、祖母(そぼ)に育てられます。静岡県(しずおかけん)にあった高等商船学校を卒業(そつぎょう)後、遠洋漁業の船に乗り()みますが、病気になり、山口市の病院に入院。退院(たいいん)後、実家でほぼ()たきりの生活を3年間送る中、歌詞の懸賞(けんしょう)応募(おうぼ)するようになります。1957(昭和32)年、横浜(よこはま)開港100周年(しゅうねん)記念(きねん)の歌に歌詞を応募し、1位・2位を独占(どくせん)。作曲家の船村(ふなむら)(とおる)さんから(さそ)われ、プロを目指して上京します。遠縁(とおえん)朱實(あけみ)さんと結婚(けっこん)した1958(昭和33)年、レコード会社専属(せんぞく)の作詞家に。

 清書(せいしょ)などを行う朱實さんと二人(ににん)三脚(さんきゃく)で「アンコ椿(つばき)(こい)の花」「函館(はこだて)(ひと)」「三百六十五歩のマーチ」「男はつらいよ」「昔の名前で出ています」「風雪(ふうせつ)ながれ旅」「兄弟船(きょうだいぶね)」などヒット曲を連発。それらは人生の応援歌(おうえんか)となって人々に(なが)(あい)される歌となります。57(さい)でフリーの作詞家になった後も「みだれ(がみ)」など多くのヒット曲を送り出し、日本作詩家協会(きょうかい)会長、日本音楽著作権(ちょさくけん)協会会長に就任(しゅうにん)

 また、ふるさと周防大島への思いは強く、1988(昭和63)年から13回にわたって「全日本えん歌蚤(のみ)(いち)」を開催(かいさい)したほか、2007(平成19)年には「星野哲郎記念館」をオープン。2010(平成22)年、(まん)85歳で()くなりました。

星野哲郎クイズ

問題1

星野哲郎(ほしのてつろう)作詞(さくし)した国民的(こくみんてき)ヒット曲のマーチは何と言いますか。
A
三百六十五()のマーチ
B
子犬(こいぬ)のマーチ
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