シベリアを単身(たんしん)横断(おうだん)した“ベルリンの私設公使(しせつこうし)

玉井 喜作

たまい きさく

光市文化センター 蔵

明治(めいじ)時代の国際的(こくさいてき)ジャーナリスト

1866(慶応(けいおう)2)年〜1906(明治39)年

 1866(慶応2)年、光井(みつい)村((げん) 光市)で生まれました。広島中学校(現 広島県立国泰寺(こくたいじ)高等学校)に進みますが、医学を学びたいと思い、中退。1881(明治14)年に上京し、受験(じゅけん)必要(ひつよう)なドイツ語を学ぶため私立独逸(どいつ)学校へ。翌年(よくねん)、東京大学予備門(よびもん)(現 東京大学教養(きょうよう)学部)に入学します。

 やがてドイツへ行きたいと思うようになり、資金(しきん)を作るため、東京速成学館(そくせいがっかん)設立(せつりつ)して喜作がドイツ語を教え、学友が他の学科を担当します。1888(明治21)年、札幌(さっぽろ)農学校(現 北海道大学)へドイツ語講師(こうし)として赴任(ふにん)。農業をしたいと思うようになり、退職(たいしょく)して農業を始めますが失敗(しっぱい)。ドイツへの渡航(とこう)を決意し、1892(明治25)年、単身でウラジオストクへ(わた)り、旅費(りょひ)(かせ)ぎながらシベリアを横断し、2年後、ドイツに到着(とうちゃく)します。

 ベルリンで新聞記者として働くかたわら、1898(明治31)年、シベリア横断の旅行記『シベリア隊商紀行(たいしょうきこう)』をドイツ語で書いて出版(しゅっぱん)すると大評判(だいひょうばん)に。同年、新聞社を()め、ドイツ語の貿易雑誌(ぼうえきざっし)東亜(とうあ)』を創刊(そうかん)国際交流(こくさいこうりゅう)にも積極的(せっきょくてき)に取り組み、“ベルリンの私設公使”とも()ばれました。1906(明治39)年、(まん)40(さい)死去(しきょ)。1924(大正13)年、ベルリン商工会議所(しょうこうかいぎしょ)前に胸像(きょうぞう)建立(こんりゅう)されました。

玉井喜作クイズ

問題1

玉井喜作が、1898年、ドイツ語で書いたシベリア横断(おうだん)の旅行記の題名は何でしょう。
A
シベリア鉄道紀行
B
シベリア隊商紀行
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