学問の自由のためにたたかった法学者(ほうがくしゃ)

末川 博

すえかわ ひろし

立命館大学 蔵

大正(たいしょう)・昭和時代の法学者、立命館大学総長(そうちょう)・学長

1892(明治(めいじ)25)年〜1977(昭和(しょうわ)52)年

 1892(明治25)年、玖珂郡(くがぐん)玖珂村(現 岩国市)で生まれ、岩国中学を()て、京都帝国(ていこく)大学法科大学を卒業(そつぎょう)後、同大学の教授(きょうじゅ)となり、1931(昭和6)年に法学博士(はかせ)となりました。2年後、文部省が滝川幸辰(たきがわゆきとき)教授の追放を通告(つうこく)してきたため、法学部教授会では、末川教授が中心となって、学問の自由を守るため文部省(もんぶしょう)と対立することを決め、京大事件(じけん)(滝川事件)に発展(はってん)。末川教授はほかの教授らと(とも)辞職(じしょく)し、その後、大阪商科大学教授となりました。
 終戦(しゅうせん)後の1945(昭和20)年11月、立命館大学学長、3年後には立命館大学総長(けん)学長となり、市民への大学開放などの新しい(こころ)みを行います。そして1969(昭和44)年に退任(たいにん)し、名誉(めいよ)総長となりました。また、民事法の最高峰(さいこうほう)の研究者であり、『岩波六法全書』の代表編集人(へんしゅうにん)、民主主義(しゅぎ)擁護(ようご)や平和運動の推進者(すいしんしゃ)としても知られ、(まん)84(さい)()くなりました。

末川博クイズ

問題1

学問の自由を守るために、中心となってたたかった末川博は、どんな学問を(きわ)めましたか。
A
法学(ほうがく)
B
文学(ぶんがく)
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