高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)を助けた勤王歌人(きんのうかじん)

野村 望東尼

のむら ぼうとうに(もとに)

東行庵 蔵/下関市立東行記念館 寄託

幕末(ばくまつ)の勤王歌人

1806(文化3)年〜1867(慶応(けいおう)3)年

 1806(文化3)年、福岡藩士(はんし)浦野(うらの)家の(むすめ)として筑前国(ちくぜんのくに)(げん) 福岡(ふくおか)県)で生まれました。福岡藩士・野村貞貫(さだつら)結婚(けっこん)し、夫が引退(いんたい)すると平尾山荘(ひらおさんそう)隠棲(いんせい)して夫婦で和歌を学び、歌会を度々(もよお)します。
 安政(あんせい)6(1859)年に(おっと)()くなると仏門に入り、望東尼と(しょう)します。やがて勤王の志士・平野(ひらの)国臣(くにおみ)らと交流を深め、山荘に志士をかくまい、密議(みつぎ)の場を提供(ていきょう)するようになります。1864(元治(げんじ)(がん))年には、萩藩(はぎはん)の藩論が2つに分かれて対立する中、九州へ脱出(だっしゅつ)してきた高杉(たかすぎ)晋作(しんさく)潜伏(せんぷく)させます。
 慶応元(1865)年、福岡藩で勤王党への弾圧(だんあつ)が始まると、望東尼は姫島(ひめしま)流罪(るざい)となります。しかし、翌年(よくねん)、晋作から(たの)まれた人たちによって救出(きゅうしゅつ)され、下関の商人・白石(しらいし)正一郎(しょういちろう)入江(いりえ)和作(わさく)屋敷(やしき)にかくまわれます。また、晋作が病の(とこ)につくと、晋作の愛人(あいじん)・おうのと看病(かんびょう)し、最期(さいご)をみとったと伝えられています。その後、山口、三田尻(みたじり)(現 防府市)に移り、慶応3(1867)年に(まん)61(さい)で亡くなりました。

野村望東尼クイズ

問題1

幕末に萩藩内で意見が分かれる中、野村望東尼がかくまった藩士はだれですか。
A
高杉晋作
B
久坂玄瑞
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