萩藩(はぎはん)幕府(ばくふ)との間を周旋(しゅうせん)

吉川 経幹

きっかわ つねまさ

岩国徴古館 蔵

岩国藩主(いわくにはんしゅ)

1829(文政(ぶんせい)12)年〜1867(慶応(けいおう)3)年

 岩国領主(りょうしゅ)・吉川家の長男として生まれ、吉川家の家督(かとく)()ぎました。経幹は1863(文久(ぶんきゅう)3)年、萩藩主・毛利(もうり)敬親(たかちか)から政局(せいきょく)への協力要請(きょうりょくようせい)と同時に、それまで藩として(みと)められていなかった吉川家の待遇(たいぐう)改善(かいぜん)約束(やくそく)されます。それを受けて経幹は敬親の代理として京都へ上ります。
 ところが「8月18日の政変(せいへん)」が起き、萩藩(長州(ちょうしゅう)藩)と攘夷派(じょういは)の7人の公卿(くぎょう)七卿(しちきょう))が京都から追放され、経幹は七卿を護衛(ごえい)して帰国します。1864(元治(げんじ)(がん))年、経幹は反対したものの、萩藩は再起(さいき)(はか)って京都へ進発し、御所(ごしょ)会津(あいづ)藩などと(たたか)い、敗退(はいたい)します(禁門(きんもん)(へん))。その直後、朝廷(ちょうてい)命令(めいれい)を受けた幕府が長州征討(せいとう)へ。そのとき経幹が幕府(ぐん)交渉(こうしょう)し、征討は中止となります。1866(慶応2)年、幕府は(ふたた)諸藩(しょはん)に長州征討を命令(第2次長州征討。四境(しきょう)戦争)。経幹は萩藩と協力(きょうりょく)して戦い、幕府軍に勝利します。
 しかし翌年(よくねん)、経幹は(まん)37(さい)で病死。突然(とつぜん)の死は()せられ、1868(明治元)年、敬親の推挙(すいきょ)で岩国藩主として認められた後、死去が発表されました。

吉川経幹クイズ

問題1

「禁門の変」後、萩藩と幕府軍との交渉に力を尽くした吉川経幹が敬親の推挙で認められた藩は、何藩ですか。
A
岩国藩
B
徳山藩
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