山口県第一号の女性医師(いし)

中原 篷

なかはら とま

村田清風記念館 蔵

明治(めいじ)・大正・昭和の医師

1873(明治6)年〜1963(昭和38)年

 1873(明治6)年、奇兵隊(きへいたい)隊士(たいし)だった中原復亮(またすけ)の長女として三隅(みすみ)下村(現長門市三隅)で生まれました。復亮が楫取素彦(かとりもとひこ)紹介(しょうかい)群馬県庁(ぐんまけんちょう)(つと)めることになり、篷も群馬県前橋市へ。前橋英学校(えいがっこう)卒業(そつぎょう)後、東京医学専門学校済生学舎(とうきょういがくせんもんがっこうさいせいがくしゃ)(現 日本医科大学)に入学。ほとんどが男子学生の中、同窓生(どうそうせい)には後に東京女子医科大学を創設(そうせつ)する吉岡弥生(よしおかやよい)がいました。

 同校卒業の翌年(よくねん)、医師国家試験(しけん)に合格して医術開業免状(いじゅつかいぎょうめんじょう)授与(じゅよ)されると、(まん)21(さい)帰郷(ききょう)して内科・小児科(しょうにか)産婦人科(さんふじんか)を開業。山口県第1号の女性医師となりました。ときには遠く美祢(みね)までも往診(おうしん)し、(まず)しい人にも進んで施薬(せやく)治療(ちりょう)に当たりました。医療だけでなく、婦人会(ふじんかい)青年団(せいねんだん)なども世話し、学校医として学校教育も援助(えんじょ)出征兵士(しゅっせいへいし)に手紙を送って(はげ)ましたり、その留守(るす)家族を激励(げきれい)したり、さまざまな形で地域(ちいき)献身的(けんしんてき)()くしました。その博愛精神(はくあいせいしん)は人々の尊敬(そんけい)を集め、三隅町の名誉町民(めいよちょうみん)となり、1963(昭和38)年、満89歳で()くなりました。

中原 篷クイズ

問題1

(まん)21(さい)で医院を開業(かいぎょう)し、山口県女性医師(いし)第1号となった中原篷(なかはらとま)が生まれた所は現在(げんざい)の何市ですか。
A
長門市(ながとし)
B
前橋市(まえばしし)
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