(ほのお)のストッパー」不屈(ふくつ)の名投手

津田 恒美

つだ つねみ

プロ野球選手

1960(昭和35)年〜1993(平成5)年

 1960(昭和35)年、南陽町和田((げん) 周南(しゅうなん)市)で生まれました。新南陽市立和田小学校時代にソフトボールを始め、和田中学校では軟式(なんしき)野球部で活躍(かつやく)し、山口県立南陽工業高等学校に進むと野球部に入ります。当時の津田選手はピンチになると自滅(じめつ)することが少なくありませんでしたが、2年生の夏、完全試合(かんぜんじあい)達成(たっせい)して自信を()け、翌年(よくねん)、チームは選抜(せんぱつ)高校野球大会(春の甲子園(こうしえん))に出場。津田選手は「弱気は最大の(てき)」と自らに言い聞かせて心を(ふる)い立たせ、ベスト8まで進出。夏の甲子園にも出場します。卒業(そつぎょう)後、協和発酵(きょうわはっこう)(防府(ほうふ)市)に入社し、秋の社会人野球日本選手権(せんしゅけん)でチームをベスト4に(みちびき)きます。

 1982(昭和57)年に広島東洋カープに入団(にゅうだん)すると新人王を獲得(かくとく)。その後、(かた)などを故障(こしょう)。1986(昭和61)年、(おさ)えの投手に転向すると150キロの剛速球(ごうそっきゅう)のストッパーとして復活(ふっかつ)してチームを優勝(ゆうしょう)に導き、4勝22セーブでカムバック賞を受賞。打たれても、打たれても闘志(とうし)むき出しで、直球で勝負する姿(すがた)から「(ほのお)のストッパー」と()ばれるようになります。1989(平成元)年、12勝28セーブで最優秀救援投手賞(さいゆうしゅうきゅうえんとうしゅしょう)を受賞。

 しかし2年後、脳腫瘍(のうしゅよう)のため、1993(平成5)年(まん)32(さい)の若さで()くなりました。2012(平成24)年には、野球殿堂(でんどう)入りとなりました。

津田恒美クイズ

問題1

()たれても、打たれても闘志(とうし)むき出しで、直球(ちょっきゅう)勝負(しょうぶ)する姿(すがた)から「(ほのお)のストッパー」と()ばれました。
A
B
完了するには、1質問があります。
戻る
網掛け部分は完了した項目です。
1
戻る

参考資料

関連施設

「山口県の先人たち」に掲載されている個々の文章、写真などは著作権の対象となっています。ご利用にあたっては、著作権法の範囲内でご使用ください。