ヨーロッパに初めて(わた)った萩藩士(はぎはんし)

杉 孫七郎

すぎ まごしちろう

オランダで撮影した写真『環海詩誌』(山口県文書館蔵)より

明治(めいじ)時代の宮内省官僚(くないしょうかんりょう)

1835(天保6)年〜1920(大正9)年

 1835(天保6)年、萩藩士・植木家の次男として御堀(みほり)村((げん) 山口市)で生まれ、萩藩士・杉家の養子(ようし)となりました。文武(ぶんぶ)(すぐ)れ、藩主の側近(そっきん)である小姓役(こしょうやく)となり、藩主の信任(しんにん)()ます。

 1861(文久元)年、幕府(ばくふ)使節(しせつ)欧州(おうしゅう)へ送ることになった際、孫七郎は萩藩から(えら)ばれ、その一行に(したが)って渡欧(とおう)します。一行はフランス、イギリス、オランダなどを訪問。孫七郎は産業革命(さんぎょうかくめい)が進む西欧諸国(しょこく)に衝撃を受け、1862(文久2)年12月に帰国するとすぐに藩の重臣(じゅうしん)周布政之助(すふまさのすけ)らに報告(ほうこく)。話を聞いた周布は翌年(よくねん)井上馨(いのうえかおる)ら5人の藩士をイギリスへ密航留学(みっこうりゅうがく)させることに力を()くします。1864(元治(げんじ)元)年、英仏蘭米四国連合艦隊(えいふつらんべいしこくれんごうかんたい)下関(しものせき)来襲(らいしゅう)した(さい)には、藩の副使(ふくし)として講和会議(こうわかいぎ)(のぞ)み、講和を成功(せいこう)させます。

 明治維新(めいじいしん)後は宮内大輔(くないたいふ)皇太后宮大夫(こうたいごうぐうだいぶ)などを(つと)めて主に宮内省官僚(くないしょうかんりょう)として活躍(かつやく)し、天皇(てんのう)(あつ)信頼(しんらい)を得ます。漢詩作りや書の名人としても名を知られました。1887(明治20)年には子爵(ししゃく)となり、その後、枢密顧問官(すうみつこもんかん)などを務め、1920(大正9)年、(まん)85(さい)で亡くなりました。

杉孫七郎クイズ

問題1

明治維新後(めいじいしんご)は、天皇(てんのう)(あつ)信頼(しんらい)()ました。漢詩(かんし)(づく)りや(しょ)名人(めいじん)としてもその名を知られました。
A
B
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