不平等条約改正(ふびょうどうじょうやくかいせい)のため鹿鳴館(ろくめいかん)外交を展開(てんかい)

井上 馨

いのうえ かおる

山口県文書館 蔵

幕末(ばくまつ)萩藩士(はぎはんし)明治(めいじ)時代の政治家(せいじか)

1835(天保(てんぽう)6)年〜1915(大正(たいしょう)4)年

 1835(天保6)年、吉敷郡湯田村(よしきぐんゆだむら)(現 山口市湯田温泉(おんせん))で萩藩士の子として生まれました。萩藩の藩校「明倫館(めいりんかん)」に学び、藩主に(したが)って江戸へ行くと蘭学(らんがく)を学び、海防(かいぼう)に関心を持つようになりました。1863(文久3)年、伊藤博文(いとうひろぶみ)らとともに、いわゆる長州(ちょうしゅう)ファイブの1人として英国(えいこく)密航留学(みっこうりゅうがく)しますが、藩が欧米(おうべい)の船を攻撃(こうげき)したことを知り、急きょ帰国しました。1864(元治(げんじ)元)年、幕府(ばくふ)によって第1次長州征討(せいとう)命令(めいれい)が下されると、萩藩内の保守派(ほしゅは)と対立し、襲撃(しゅうげき)されて、ひん死の重傷(じゅうしょう)を負いました。
 明治維新(いしん)後、大蔵大輔(おおくらたいふ)として国立銀行を設置(せっち)し、三井(みつい)などの政商(せいしょう)保護(ほご)する政策(せいさく)を進めました。第1次伊藤博文内閣(ないかく)では外務大臣(がいむだいじん)を務め、幕末に幕府が欧米諸国(おうべいしょこく)と結んだ不平等条約の改正に取り組みました。その交渉(こうしょう)を外国と進めるにあたり、欧米の制度(せいど)や服装、生活様式を積極的(せっきょくてき)に取り入れる欧化(おうか)政策をとり、「鹿鳴館(ろくめいかん)」では政府の高官が国内外の紳士淑女(しんししゅくじょ)招待(しょうたい)して大舞踏会(だいぶとうかい)を開いたり、慈善(じぜん)バザーを行ったりしました。 また、日本鉄道会社や日本郵船(ゆうせん)会社の設立に力を()くし、三井や、藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)の藤田組などの財閥(ざいばつ)顧問(こもん)を務め、(まん)79(さい)()くなるまで、政界や財界に強い影響力(えいきょうりょく)を持ち(つづ)けました。

井上馨クイズ

問題1

井上馨が、不平等条約(ふびょうどうじょうやく)改正(かいせい)交渉(こうしょう)を進めるために大舞踏会(だいぶとうかい)を開いたのは、何という建物(たてもの)ですか。
A
鹿鳴館(ろくめいかん)
B
養老館(ようろうかん)
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参考資料

  • 奮発震動の象あり 防長教育史の人びと(松野 浩二 著)大村印刷(株)
  • その後の長州五傑(松野 浩二 著)大村印刷(株)
  • 長州にとって竜馬は恩人だった・・・。竜馬と長州 坂本竜馬と長州藩士たち。(月刊タウン情報YAMAGUCHI編集部)株式会社ザメディアジョン

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