山口県の女子教育のパイオニア

毛利 勅子

もうり ときこ

山口県立厚狭高等学校 蔵(山陽小野田市観光課 協力)

教育者

1819(文政(ぶんせい)2)年〜1879(明治(めいじ)12)年

 1819(文政2)年、徳山藩(とくやまはん)8代藩主(はんしゅ)広鎮(ひろしげ)の7女として生まれ、厚狭(あさ)毛利家の元美(もとよし)能登(のと))に(とつ)ぎました。
 明治維新(いしん)後、勅子は船木区長(ふなきくちょう)兼重(かねしげ)慎一(しんいち)と女子教育の重要性(じゅうようせい)を県に(うった)え、厚狭(ぐん)船木村((げん) 宇部市船木)に1873(明治6)年、「船木女児小学」を開設(かいせつ)し、校長・訓導(くんどう)となります。勅子の熱心(ねっしん)指導(しどう)などにより、児童(じどう)数は年々増加(ぞうか)。1878(明治11)年、2階建(かいだ)ての新校舎建築(しんこうしゃけんちく)に取り()かりますが、教壇(きょうだん)(たお)れ、(よく)1879(明治12)年、校舎の完成(かんせい)を見ることなく()くなります。(まん)59(さい)でした。
 その年、校名は勅子の(とく)をしのんで「徳基(とっき)学舎」と(あらた)められ、さらに1884(明治17)年には「徳基高等女学校」と改称(かいしょう)され、県内初の高等女学校となりました。
 同校は1908(明治41)年、厚狭郡厚西村(現 山陽小野田市にある厚狭高等学校南校舎の地)に新築移転(しんちくいてん)、さらに県立厚狭高等女学校、県立厚狭女子高等学校、県立厚狭高等学校と改称し、現在に(いた)ります。

毛利勅子クイズ

問題1

1879年に毛利勅子の徳をしのんで「船木女児小学」から改められた校名は何ですか。
A
徳基学舎
B
勅子学舎
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