時代や作家と“対決”した写真家

林 忠彦

はやし ただひこ

周南市美術博物館 提供

昭和・平成時代の写真家

1918(大正7)年〜1990(平成2)年

 1918(大正7)年、徳山(とくやま)町((げん) 周南(しゅうなん)市)で写真館の長男として生まれました。徳山商業学校(現 山口県立徳山商工高等学校)を卒業(そつぎょう)後、大阪(おおさか)へ出て、写真館で修業(しゅぎょう)。一時帰郷(ききょう)()て東京の写真学校で学び、卒業すると生家の写真館を手伝います。その後、(ふたた)び上京。東京光芸社(とうきょうこうげいしゃ)に入社し、プロの写真家としてデビュー。東京と中国を往復(おうふく)して報道(ほうどう)写真を撮影(さつえい)します。

 終戦(しゅうせん)後はフリーとなり、作家・太宰治(だざいおさむ)坂口安吾(さかぐちあんご)らを()った写真が彼らの文学世界や内面まで想起(そうき)させるとして大反響(だいはんきょう)()び、出世作となります。1953(昭和28)年、二科会写真部を創設(そうせつ)し、アマチュア写真家の育成に乗り出します。その後、写真集『日本の作家』『日本の画家108人』『若き修羅(しゅら)たちの里‐長州路(ちょうしゅうじ)』などを刊行(かんこう)。67(さい)のとき、ガンを告知(こくち)されて手術(しゅじゅつ)し、その後、仕事を再開しますが、脳内出血(のうないしゅっけつ)で倒れます。片腕(かたうで)・片足が不自由となりますが、車いすで東海道の撮影へ。

 その後、勲四等旭日小綬章(くんよんとうきょくじつしょうじゅしょう)日本写真協会功労賞(にほんしゃしんきょうかいこうろうしょう)徳山市市民文化栄誉章(とくやまししみんぶんかえいよしょう)などを受章。1990(平成2)年、『東海道』刊行の3カ月後、(まん)72(さい)()くなりました。

林忠彦クイズ

問題1

東京光芸社(とうきょうこうげいしゃ)入社後(にゅうしゃご)、プロの写真家(しゃしんか)としてデビューしました。東京とアメリカを往復(おうふく)して報道写真(ほうどうしゃしん)撮影(さつえい)しました。
A
B
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